アダルトチルドレンからの回復~失ったものを取り戻す~

・°☆”Core Rebirth あなここ”オフィシャルブログ☆.。アダルトチルドレン(毒親・機能不全家庭・コミュニケーション不全・喪失感・依存症)から失った自分を取り戻すブログ

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【アダルトチルドレン】お姉ちゃんと呼ばないで

お姉ちゃんだから、我慢しなさい。

このフレーズを言われ続けられた人は、

「お姉ちゃん」が呪いの言葉になります。

お姉ちゃんである特権もあったはずですが、

特権をかき消すように、呪いが優先されます。



私も子育て中に大きな勘違いをしていたのですが、

「だから、自分の子どもたちは、お姉ちゃんお兄ちゃんと呼ばせないように

名前で呼ぼう」

と、心に誓い、実際その通りにしました。


かつて、そのことを成し遂げた自分を実に誇りに思っていました。

呪いの言葉から子どもたちを守った・・・とぐらいに思っていました^^;;;



当時、そんな事を、とうとうと子育て仲間に語っていたのですが、

今考えると、まわりの友達は「へえ~」みたいな

うす~い反応をしていたことを思い出します(*v.v)。ハズイ。。。。


そのうち、自分の表現方法が薄いのかな?と考え

次第に大げさに伝えるようになっていったような気がします。

自分が我慢し続けた、大変だったことを訴えたかった・・・

ただ、それだけのことだったのですが、

ムキになればなるほど、

私の行為は、一般の人にとって、すごく奇妙な言動だったのかもしれません。



今思うと、別に「お姉ちゃん」という言葉が悪いわけではない。

お姉ちゃんだからと、人知れず我慢し続けて

我慢したことを誰にも受け取ってもらえなかった悔しさで

「お姉ちゃん」という言葉を呪いの言葉にしたのは

自分自身ではないか?ということに思い至るのです。



「お姉ちゃん」=「我慢」と変換したのですね。

このように表現することで、

密かに我慢している幼い自分に気づいてくれない親へ向くべき怒りを、

ベクトルを変えて「お姉ちゃん」という呼び名に向けたのだろうと感じます。

親を守るための、一種のすり替え行為ではないかと感じます。



お姉ちゃんと呼ばれた瞬間から、

自分が生まれてから独り占めしていた位置を脅かす

小さな兄弟が現れるわけです。

もともと、子どもの不安な気持ちを受け取る容量の無かった家庭であるうえに

さらに、理不尽このうえない強力なライバルが現れるという状態は

不安定な子どもにとっては、怒り、悲しみ、嫉妬、不安、恐怖を与えます。

やがて、次第に兄弟が存在する事を諦め、

負の感情は心の奥底に閉じ込められ

今度は、親に認められるために、うなだれながら妹や弟の

お世話をする方を選択していくのでしょう。


しかし、整理のつかない理不尽感だけは残っていきます。

「お姉ちゃん」と呼ばれるたびに、自分の名前を呼んでもらえる頻度も減っていき

自分の名前を失っていくような感覚だけが悲しみとなって積もっていくのかもしれません。

失っていく自分の名前を憎み「お姉ちゃん」という言葉を憎むことは

しごく自然なことだったのかもしれません。



そして、いつのまにか、

いかに自分が他人より特別にひどい扱いを親から受けたかを訴え、

そしてその酷いことを我が子にしなくて済んだ私の武勇伝となったのではないか・・・

それは他人の目からみたら、訴えれば訴えるほど、こっけいに見えたと思います。



「お姉ちゃん」という言葉には、罪はない(^▽^;)


もしかしたら、私は、「お姉ちゃんと呼ばせなかった」ことで

我が子を通じて、自分が失っていった名前を取り戻したかったのかもしれません。


幼いころに感じていた、怒り、悲しみ、嫉妬、不安、恐怖・・・

我慢の箱から出して解放してしまいましょう~;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・

お姉ちゃんだって、泣きたい時は、いっぱいあったのよ。

| AC | 09:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレン】なぜ他者をいともたやすく悪者に仕立て上げられるか

前回と前々回の記事で、過去回想の記事をあげました。

さて、幼い頃に出来あがった自分を守るために作った「配列」

(劣等感、優越感、我慢、感情封鎖)が、

その後の人生にどのように影響したのか

自分を振り返って考えてみました。


配列とは、その人の家庭でしか通用しないルールのようなものです。

学校や会社、そして結婚しますと

その人間関係の中で、自分が当たり前と思っていた配列は

他者との人間関係では通用しなくなります。


ずっと以前書いた、マヨネーズ(調味料の記事を書きました)に象徴されるようなことが子どもたちに起こりました。

これは、調味料だけではなく、

生活のいたるところに、監視され制限されてきた数だけ配列はあるわけですが

人間関係において「自分の配列(ルール)」をいともたやすく崩す他者の言動は、

「不快キーワード」として、自分の気持ちを逆なでしていくものになります。


友達とご飯を食べると

友達が野菜にモリモリとマヨネーズをかけている状態を見るだけでも

ハラハラした気持ちになってしまうんですね。

そのハラハラした感覚は、かつて自分が親たちから制限を受けてきた「配列(ルール)」であり

壊すべからずの場所でした。

しかし、関係性が遠い友達であれば、そのハラハラ感(不快)を閉じ込めて

嫌悪感を持ちながらも、愛想笑いくらいはできるでしょう。

しかし、関係性が近い家族ともなると、怒りになっていきます。

「なんで、そんないっぱいかけるのよ~~」と。


配列が多ければ多いほど、こうして自分のルールを相手に強要していきます。

そして、そのような特殊なルールがある世界を親子で構築していくのですね。


家庭から一歩出れば、人間関係においてもこのように

「配列」ばかりに目を向けることになります。

形や表面ばかりに目がいってしまいがちにもなるでしょう。

相手の「形を矯正する」ことが、人間関係の主たる目的になっていきます。


この時、自分や相手の感情にふれたり、状況を読んだり、味わったりする

人間らしい感覚の機微を感じにくい状態になっていきます。
 

そこで・・・

同じと見える状況でも、微妙な感覚を捉えられない状態が発生するのではないかと感じます。

(空気を読めないとか、暗い、とか言われやすい状態ではないかと感じます)


同じ状況に見えても、実はシチュエーションが微妙に違う状態が分からず、

ずれた発言や行動をしてしまって、周りに引かれてしまったりということは

多少は、誰でも経験あることではないかと思うのです。

あるいは、相手の様子を感じながら、「あ、やっちまった~」と

穴に入りたい恥ずかしい気持ちになったりもしながら、

失敗の経験を積み上げながら、細やかな人間関係が上達していくのだろうと思います。

しかし、「配列」が多いと・・・

「この前と違うじゃない」

「この前、こうしたでしょ。だから、次もこうしなくちゃダメ」

と、自分の世界観で相手を責めたくなっていきます。

過去に自分が作った「配列の世界」に、まわりを押し込めようとするんですね。

人間関係が緊張感をもってきますね。

世の中は、自分にとって、油断がならない不快だらけになってしまいます。


ある時は、うまくいくかもしれませんが、うまく行かない場合が多い場合は

自分の配列を押しつけていないかを、振り返ってみてください。

かつての、私がやっていたことと同じではありませんか?



昔を振り返って・・・自分の失ってきたものの大きさをよく考えます・・・

感情や感覚を子どもに教えようと早期教育にかつて走りましたが

それは、私が一番欲しかったものだったのだろうと、そんなことを思います。


感情・・・人が元々持つ、美しいもの。

感覚、大いなる豊かなもの。


無機質の過去の配列(ルール)で、いつしか育て忘れてしまったものかもしれません。


自分(感情)の種を大切に慈しみ、育てて欲しいなあと

大人たちにも、子どもたちにも思うことです。


| AC | 21:46 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレンの子育て】比較・劣等感

私が、小学校一年になろうとする幼稚園年長の終わりの頃に、

知能検査というものが当時ありました。

今は、ずいぶん昔に廃止になったと聞いたことがあります。


で・・・

その結果、「知能が高い」ということが判明。

将来が楽しみだと言われたようでした。

小学校に入った頃、親たちはそのことを自慢げに話し、

私にもご近所さんにも・・・。

先生たちからも会うたびに言われて親はご満悦。


どんな検査だったのか・・・、受けたことだけはなんとなく覚えています。

茶色の冊子になったものを小学校の木の机で、やった記憶があります。


さて、「知能が高い」「将来が楽しみ」と言われたということは

そこに、当然まわりの子たちと親が比較していたという事実。

子どもとしては 親のニュアンスから

期待と優越感を学んでいきます。

同時に、何を考えているのか分からない子とも言われ

それは、ダメな自分を示唆されます。

自慢と劣等・・・同時に示されることは

普通の比較のない世界から遠くはじき飛ばされた思考を

極端に植え付けられたのではないかと感じます。

まわりの期待に添う生き方・・・

小さな村でしたので、先生やまわりの子、親たちの期待

きつかったな・・・と当時を思います。

小学一年の時に不登校になったのは、

あまりに期待が重かったことを示しているのかもしれません。




そして、小学5年で引っ越しをしたとき

期待から外れることに、かなり、ほっとした自分もいたりしました。

しかし、以前の学校より大きな学校で、大人数の中に埋もれた自分に

激しく劣等感を抱いてしまっていた私がいました。


そこから、スピリチュアルな特別な空想の世界に飛んだのではないかと感じます。


比較、劣等感を強烈に植え付けるのは

家庭ではないかと感じるのです。

子どもの評価を、比較でしないで欲しいと思うのです。

小さな私は、今頑張ったことを認めてもらえれば、それでよかったんです。

優越感を抱かせるということは、劣等感も強烈に抱かせるということを

知っておいて欲しいと思うのです。


後に、長い長い間劣等感と優越感のはざまで苦しんだこと
そこから抜けるまで、人間関係で心が交わらない苦しさを
経験したか・・・記しておきます。

| 過去回想 | 20:01 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレンの子育て】我慢は美徳

小学生の頃でした。

当時、なんとかという通信教育の走りでしたが

勉強の進度に合わせて、毎月冊子が送られてくるという補助教材が

友達の間ではやったことがあります。

今でいう、○ペン先生みたいなものだったかと思います。


特に一番親しかった友人がその教材をやっていることが

うらやましてく、親に「これをしたい」と言った記憶があります。


多分、自分から親に「欲しい」と言ったのは始めてではなかったかと。

欲しかった~~という記憶があります。

でも・・・

母親は渋い顔をして、あえなく却下されました。

(理由は覚えてないのですが・・・お金のことを言われた記憶だけはあります)


その時に限って何度かしつこくせがんだ記憶があるので

話も聞いてくれずに、却下は、すご~く悲しかった。

お金を理由に言われたら、歯がたたない・・・


多分、当時の私は、友達と同じことをすることによって、

共有して繋がりたかったという気持ちが大きかったと思います。

その気持ちを分かってもらえなかったことにがっかりしていたと思います。


教材云々ではなかったのですね。


しばらく悲しみにくれて意気消沈してました(^^;

悲しみを誰にも言えず、1人ふてくされて、我慢していました。

そして、諦める方向で自分をなだめていました。


が・・

ある日のこと、何の前触れもなく「やってもいい」という許可が母から出せれました。


うれしかったのは嬉しかったのですが・・・

一度は、1人悲しみにくれて、我慢して、諦めようと頑張ってる最中。


たぶん、私のそんな姿を見て、母親は考え直したのではないかと思うのですが・・・

せっかく頑張って、自分の気持ちをなだめたのに、複雑な気持ちでした。

結局、やり始めたものの半年で全然しなくてやめてしまいました。


一旦、我慢させて、諦めさせられ、悲しい気持ちを自分でどうにか治めようと

葛藤している状態を、ぶち壊しにされ

「いいわよ」と言われる感覚・・・

なんだか、我慢して、落ち込んだ姿を見せたら、何かを得られると

教えているようなものではないかと今、思うところです。


これは、記憶に残っている数少ない具体的なエピソードではありますが

形を変え、品を変え、こういうことが繰り返されたのではないかと感じます。

そして、私も同じことを子育てにおいてやっている・・・^^;

ずっと、心に引っかかっていたことでした。


我慢は、美徳ではない。

我慢をアピールに使ったら相手を無意識に操作していることになる。

そのことに気づくのに、数十年・・・かかってしまいました。


もし、一度、断ったのなら

葛藤する状態をよしよしと、見守っていて欲しかったと

そんなことを思います。

そうして、子どもは、葛藤する自力をつけていけるのではないかと感じます。


| 過去回想 | 17:52 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレン・不登校】自分の意思を決めることを妨げているもの

いつの間にやら、8月も終わりに近づいてきています。
既に学校が始まっている地域もあるでしょう。
不登校のお子様をお持ちのご家庭は、
子どもさんが、今学校へ行ける心の状態であるのかどうかを
見誤らず、焦らずに過ごして頂ければと思っています。

お子様の「心の状態」と「表面に出ている状態」は、違うことが多いと感じます。
お母さんの心の状態をフラットにして判断する必要がありそうです。

*あなここでは、お母さんの心をフラットにしていくお手伝いをしています。


今日のお題・・・「決める」ということについて考えてみたいと思います。

何かを選ぶ時、人は自分の基準で、物事を決定していきます。

しかし、決めるという作業の時に、選ぶという状態があるかと思います。

行くか、行かないか。アイスか、かき氷か。

牛丼か、天丼か。

電話をするかしないか。家を買うか、買うまいか。


生活のあらゆる所で、小さなことから大きなことまで

「選ぶ、決定」するということを私たちはしていますね。

その時、どっちにしようか??と迷ったり、悩んだり、苦しんだりすることを

心理学用語で「葛藤」と言います。

「葛藤」の状態にはいくつかの理論上のパターンがありますが

あなここでは、心理学用語を出来るだけ使わずに説明することを行っています。

心理学用語を使うと、あたかも分かった気分になってしまい

用語に症状を当てはめて終わってしまう(安心してしまう)ことを恐れます。

「AC」という言葉も、便宜上で使っているだけですので、
「生きづらいと感じている人」「親と上手くいかない人」
「人間関係がうまくいかないと感じている人」「子育てが難しい」などを
簡単に表す言葉だと思って下されば助かります。
自分が「ACであるのかどうか」に捉われる必要も無いと思っています。
また、実際の当人の悩みと、症状名である「AC」や「発達障害」「うつ病」「アスペ」なども、
かけ離れている場合もまた多いと感じています。
あなここでは、生身の人間としての苦しい状態を
良い方向になるよう、共に考えていくだけです。


「事件は、常に現場で起こっている」ってことです(笑)


さて「決める」に戻ります。

物事を決める際の葛藤の状態をちょっと考えてみました。


①やりたい

②やりたくない


多くの場合の葛藤のベースはこれだと思います。

しかし、このシンプルな事を「自分で決める」ということが意外に出来ない方が

多いと感じます。

出来ない・・・というより、それ以前の問題で

そもそも、自分の意思がよく分からないという状態があります。

この不可思議な現象が、一体なぜ起こるのか、

可能性として、考えてみました。


①親の過干渉によって、自分で決める練習をする機会が無かった


②自分で決めた事によって、嫌な体験をした




①の場合は、身近なところから自分の意思を決めて行く練習を地道にしていくことが必要だと感じます。
自分で決めていいんだ、という体験を積むってことですね。

例:今朝の朝食は、パンがいいか、白ご飯がいいか。
  (家族は、どっちが好みだろうという決め方ではなく
   自分はどちらを食べたいのだろう、と考えていくのがポイントです)

しかし、たったそれだけでもかなり抵抗が起こるのですね。
決められないには、決められなくなった背景というものが存在していると感じます。


それが、②という状態ではないかと感じます。
主に、幼少期の体験がベースになると思ってください。

例:習い事を始めたが、段々嫌になってきた。

子「やめたい」

母「途中で投げ出したら、ろくな人間にならない」
 「自分でやりたいと言い出したんでしょ」

子「だって、先生が厳しいんだもん」
(自分は行きたいが、先生が厳しいということで自己防衛の言い訳)

母「あなたは、何をやっても続かないのね。夏休みの宿題だって、いつもそうだわ
  あの時だって#%&#&%×△□ 」

子「・・・」

子には、やりたいという意思は持てても、

やめるという意思は存在してはいけないことになります。

そうすると、何かをやり始めることが、止められないのだという

恐怖を呼び起こすようになっていきます。


子は自分の意思を出すことを恐れるようになり、

「やめたい」という自分の意思よりも、もっと辛い状態の

母親の延々と続くお小言の針のムシロから脱出するために

「やらなければならない」という結論を得ることでしょう。


この繰り返しによって、子は、自分の「やりたい」「やりたくない」という意思に付随してくる

母親の責める、泣く、無視、怒り、から逃れるために

「ねばならない」と自分を納得させるしかなくなるのだろうと思います。


やがて、大人になっても、思考の癖として、

何かを選択したり、決める時に

主軸に「ねばならない」=「~~しないと、○○と言われる(思われる)」ということが

ベースを占めることになります。


この連続性の中で

例:「ほら、みなさい。お母さんの言った通りでしょ」

何かをやりたいと選択し、失敗した時に

このような言われ方をしたら、

自分で決めること=失敗する=ダメな自分

という流れが、自分の心に刻まれていくことでしょう。

成功体験もあったはずですが傷ついた心が深いほど

成功体験はかき消されて、ダメな自分がクローズアップするのではないかと感じます。

自分を守るために、次第に自分で決めることを恐れていくのでしょうね。



子どもがどろんこ遊びをして大きな山を作っている時に

途中で、崩れてしまって泣いてしまった時があるとします。

もし、夢中で何かをやって、失敗した時

「よしよし、頑張ったんだね、上手くいかなくて悔しいんだね」

と悲しい気持ちを存分に受け取ってくれる存在があったならば

ダメな自分も、受け入れることが出来たのではないでしょうか。



以上のことを不登校の子供の状態に重ねてみます。

学校へ行きたいのか、行きたくないのか、

それとも行けないのか、という問題が発生するとき、

自分で自分の気持ちを決められない状態であるかもしれないと

考えてみてもいいのかもしれません。

自分で決められない成育歴があったからこそ、

終わらない葛藤で苦しんでいるのではないかと感じます。


子どもたちが「学校へ行かなくちゃいけなんだ」「働かなくてはいけないんだ」

「このままじゃ、だめだ」と考えている時、

子ども自身の意思なのか、成育歴から強迫的にそう思っているのかを

分けて考えた方がいいかもしれません。

もし、子どもたちが 強迫的に思っていることであるのなら

子どもたちから奪った意思を、返していく所から

始めなければならないのではないでしょうか。

どうやって?

それはセッションでお伝えしています^^

| 不登校とAC | 11:43 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレン】覚えていること

娘と夢の話をしました。

夢と言っても、将来の夢ではなく、過去の夢です。


娘が幼稚園時代から接点があった、

共依存親子との関係。

まだ、娘の中に影を落としています。


その親子の娘さんとうちの娘は同い年です。

家も超近所です。

一見、姉妹のように育った2人でした。

が、娘がその関係に疲弊しているのはずっと見てきて知っていました。

知っていたのに、手を打てなかった母としての私は

ずっと、娘に負い目を感じていました。
(あまり、いい関係ではありませんね)

2人の関係を疲弊させたもの・・・

私とその子の親との共依存関係。


先日、私の夢の中にその子が出てきました。

そして、淡々とその子に、

「これは、していけないと思うよ」

「おばちゃんは、そう思うんだけど、あなたはどう感じてるの?」

と、会話をしているシーンでした。

その子も落ち着いた感じで対応していました。

隣で娘が、穏やかな顔をして聞いている・・・そんな夢でした。


過去の現実は、そういうシーンは、有り得ない状態で


その子がうちに毎日遊びに来る
   ↓
不快ワードが乱発される
   ↓
私のイライラがたまる

私が我慢して我慢して、

子どもたち(その子を含めて)に八つ当たりするというのが

よくあったことでした。

一体誰に、何を怒っているのか分からない状態でしたが

振り返れば、私の表現力のなさ、感情をためて爆発させるという過去。。。

不快キ―ワ―ドへの無意識の怒り。



そして、その子が親に訴える、

その親が、ものすごい形相で家に乗りこんできて

何時間も何時間も娘と私が、彼女に説教される。

娘はその状態に、何度か泣いたことがあるかもしれません・・・

私は、恐怖から解放されるために、納得したふりをしなければならない。


しかし・・・今、考えるべきところは

その親子ではなく、娘に対する罪悪感・・・。

罪悪感を持っている状態の私が娘を過去に囚われさせてしまっている。



その夢の話を先日娘にしてみました。

内容を一通り、話した後で、

「あの時、あなたを守ってやれなかったことが一番悔いている。
黙っているのが一番何も起こらないことを、あなたに教えたようなものだ・・・」
と私の気持ちを伝えてみました。

すると娘が
「実は、私も●●ちゃんに、自分の気持ちを言ったら
●●ちゃんは、すぐに、おばちゃんに言うだろうと思ってた。
そして、おばちゃんは、すぐにお母さんに言いに来るだろうと。
お母さんは、私に怒るだろう・・・とても怖くて言えなかった」

娘は、娘なりに沈黙をしながら、私や自分を守っていたのだろう。
(こうして、当時の気持ちを言葉にすることは、
 自分を決定していくために、大切なことだと思います)

さて・・・

娘は、一体、この言葉の中で何を一番訴えたかったのでしょう。

ちょっと、自分なりに、「私ならこうかな」ということを
想像してみてください。
それから、下の続きの文章を読んでみてね^^


  ↓


  ↓

想像してみましたか~?


  ↓






子どもに、自分の気持ちを話してもらう事が大切。
つい、「おかあさんはね~」と持っていくと、子どもは、
気持ちを受け取っトもらえなかった~と、がっかり~~~します。
ここは、親子の会話で、気をつけて欲しいところです。
会話には、ポイントとなる、キーワードが必ず入ります。
娘の答えの中に、何を一番訴えたかったかというと
「怖かったんだ」という気持ちですね。




以前はこの事を話題にするだけでも嫌悪感をあらわにしていた娘でしたが、

こうして、共有した出来ごとを、2人で少しづつ、

「怖かったなあ~」とエピソードを話していくことで

「自分の気持ちを他者に安心して伝えていい」と

もう一度、やり直している最中です。


もちろん、親が覚えていること。

不必要な罪悪感で「かわいそう」などと思わないことがポイントです。



現在、就活まっただ中で、実習中な娘。

来年、社会へ出て行く前に、

「自分の気持ちを表現する」ということを

少しでも緩和させていければと時々こんな話をしてます。


こんな風に、まじめな話もしますが、8割方は2人で遊びほうけてます。

遊びほうけながら、チャンスを逃さない。(失敗も多々あり^^;)

まじめな話に持っていく導入部分は、かなり練習が必要かもしれません。

相手の状態、自分の気持ちの純度(一方的でないかどうか)を計りながら

話さなければ、なかなか一致しないところでもあると思います。

子どものプッシュは、じっくり確実に^^

かすかな変化を感じることも大切かもしれません。


| AC | 14:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【お知らせ】9月の予約を承ります


お盆が終わり、夏休みも終わったところもあるようで

ちょっと、夏の疲れが出てくる時期でもあります。

皆様、体調に気をつけてくださいね。


さて~

9月のセッション予約を本日から承ります。

どのようなシフトになるのか、さっぱり分かりませんが

みなさんが少しでも気づきが深まるような

グループの組み合わせをしていきます。


締め切りは、27日までにメール送信を、お願い致します。

月末は業務で、普段メールのやり取りをしない方とも繋がれるので、

近況が分かったり、メールでお話しできたり、

それが楽しかったりします^^


今月の予約の際に、ちょっとお願いがあります。

もし、よろしかったら、

9月に自分が取り組みたい課題・問題を、ちょっとだけ書いてみて下さい。

シフト組み合わせの時に参考にしたいと思っています。

よろしくお願い致します。

りんりん

| あなここ便り | 14:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレン・子育て】執着を考えてみようか


①執着・・・手放したくないもの

②愛着・・・大切にしたいもの


大まかに表現するとしたら、こんな感じでしょうか。

①には、色々なパターンがあります。
「分からせたい」
「しらしめたい」
「閉じ込めたい」
「思う通りに動いて欲しい」
「受け入れて欲しい」
「相手に自分が正しいことを証明したい」

などの欲求が、肥大してしまって
自分が欲求に縛られて、苦しいと感じると、
たぶんそれは「執着」と言えるのではないでしょうか。


私はこんなに我慢して家庭を切り盛りしているのに!と
思っている人が発するお茶碗の片づけ方は、
他人から見ると、恐らく怒っているように見えるかもしれません。

夫や家族は、「またか・・・」と思い、触らぬ神にたたり無し・・・で
知らぬふりを通してスポーツニュースを見続け子どもならゲームを続けるでしょう。

そこで、「こんちきしょう」という怒りがはっきり意識に上がってきます。
「私は、こんなに苦労しているのに、あなたたちはいいわね」と言わんばかりに
今度は、掃除機を持ち出して、ガンガンとかけ始めます。

「邪魔!」とありありな嫌がらせと共に「私は我慢している」を打ち出してきます。

ある意味、執着とは、「自分がいかに間違っていないか」を
相手にしらしめるための、隠された自己顕示欲でもあるのかもしれません。

多分、恋愛や人間関係の執着も同じかと感じます。

「私は、あなたに○○なことを感じているのを分からせたい」
「ありがとうと言わせたい」
「大変そうだねと言わせたい」

このような人間関係は、概ね相手を疲れさせてしまいます。
不登校の親と子の関係に、よく見られる状態ではないでしょうか。


これは、依存とは別なものですね。

生まれたばかりの赤ちゃんが、母親に対して感じる本能的なもの
「失いたくないもの」「この人を失ったら生きていけない」
が、依存の状態であると感じます。
もしかしたら、赤ちゃんが持つ本能的依存は
愛情の前段階である状態ではないだろうかと感じます。

本能的に「失いたいくない」と感じることが依存であるならば
子どもの心の発達段階において、
依存から次第に愛着・愛情「大切にしたいもの」として根付き、
やがて自立へと進んでいくのだろうと思うのです。

もし、執着が自己顕示欲の一種ではないかと仮定すると
依存と執着は混同されやすい部分ですが、
分けて考えた方が良さそうな気がします。

ただし、大人の場合の依存は、
欠けた自分を補いたい本能が依存の状態なのだということを
自分で意識しておく必要がありそうですね。


| AC | 14:20 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレン】負の思考のループと心の空洞化

「負の思考」「正の思考」、あるいは、ポジティブシンキング、ネガティブシンキング

そう言った言葉があります。

しかし、分けることにあまり意味を感じていません。


元をたどれば、負の思考は、

幼少期に自分を守るために、自分が作った仕組みなので

ある意味、本人にとってはポジティブ(正)思考でもあるのではないかと感じます。



例えば人と話していると、つい自分を「誤魔化す」という手法を使ったとします。

A「昨日のTV、見た?新曲、良かったよねえ~」

B「うんうん、見た見た。すっごくよかった~」

実は、Bは、見てない。

お母さんとケンカして、ふてくされて部屋に閉じこもってもんもんとしていたという

そんな事実があったとします。

でも、Bは、Aをがっかりさせたくないという気持ちが瞬時に湧き出て

「見た」と反射的に嘘を答えたのではないかと思います。


その後、嘘をついてしまった気持ち悪さから

なんとなくAに近づかないようにしていきます。。。

「自分の本意」と「嘘」で、自分が苦しくなっていきます。

どことなく、罪悪感めいたものを感じ、

同時に、Aと付き合うと、また「嘘を言わせられる不安、恐怖」から

避けるようになっていくのではないかと感じます。


しかし、Bにとって「相手をがっかりさせたくない」という反射的な気持ちは

幼いころ、母親をがっかりさせたくないばかりに

学校が楽しいというふりをし続けてきた癖のひとつかもしれません。



Bの行動で、母親ががっかりする姿は、

自分が愛されるか、愛されないかの至上命題になっていった可能性があります。

そこには、Bが母親に対して、どんな感情も安心して出せる、受け取ってもらえる

環境ではなかったという事実が思い浮かばれます。

時には、その嘘がばれて

「なんで、嘘をつくの!!」と問い詰められた事もあるでしょう。

しかし、

「お母さんを喜ばすことが、愛情を貰った実感があるのです」と、

説明できる子どもはいません。

母親に教えられたとおり、反射的に「嘘をつく」という馴染んだ行為をしただけのことですね。

母親を守るために編み出した、

「相手をがっかりさせない方法」・・・嘘をつく、誤魔化すことは、

Bにとっては、自分を守るため、母親を守るための「正の思考」ではないかと感じます。


やがて、子育てや人間関係において、

「正しい」と長年思いこんできた癖や反射的な反応に、

違和感を感じはじめる時期がきます。

思春期の頃ですね。

それ以前に、ウソはいけないと小学校の先生も、

幼稚園、保育園の先生からも言われます。

どこぞの標語にも書いてありそうです^^;

本人も「嘘はいけない」ということは、重々わかっているのです。

「社会」と「自分が家庭で学んだ信念」が、ぶつかり始めます。

つらい状況ですね・・・。


そこで、嘘をついてしまう自分を納得させるために

「私は、ダメな人間だ」(劣等感)と付け足さなければ、

正の思考と思いこんでいる「相手をがっかりさせない」ことについての

納得ができなくなっていくのではないかと感じます。



しかし、ダメな人間だと思うだけでは、一旦納得できたものの、

なおさら自分が救いようもなく苦しくなっていくでしょう。

そこで、また新たな、付けたしが必要になってきます。


「私の気持ちは、どうせ誰にも分かってもらえない」(気持ちを言わない決意)

「私は、あなたたちとは違うのよ」(見下しと優越感)


あるいは、嘘を真実にするために、記憶の操作を身につけていくのかもしれません。


こうして、たくさんの手法が付け足された結果、

人と交わらないことを行動化していくのかもしれません。

その付随物として、

「私は何者なのだろう?」

「なんのために生きているのだろう」

という心の空洞化を生むのかもしれません。


空洞化を埋めるために、無限地獄ループを作りだしているのかもしれません。

宗教的なものに依存したり、絶対的な正当性を持つ社会運動

あるいは、人の不安を抱え込むことで自分を満たそうとしたり、

何もかも興味のない状態に陥ったり、

恐怖、おびえ、パニックなどの手法が枝分かれとして、

追随していくのかもしれません。


まずは、自分がずっと信じてきた、間違った信念に

気づき修正していくことが先決だろうと感じます。

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帰省パート2


先日、母が退院したので、お見舞い、帰省も兼ねて

子どもたちを連れて日帰り帰省しました。

母は入院しているよりも、動き回っているほうが落ち着くようで

「これ食べろ~、あれはいらんか~」と

子どもたちに気を使ってくれるのはありがたいのですが

「断わるとがっかりする」という罪悪感の持たせ方は相変わらずでした。

鹿児島弁で「じゃっとや~」という言葉があります。

標準語で言えば「そうなんですね」という意味なのですが、

「じゃっとや~」の中には、

(「私の気持ちを受け取らないのね、お母さんこんなに、我慢しているのに」)

というニュアンスが入り込みます。

若い頃は、この後、不機嫌さと音による訴えが入りました。

私の不快キーワードの1つですね。


その日、偶然にも幼馴染みの同級生とそのお母さんが

先に実家にお見舞いに来ていました。

私にとっては、小学5年以来会う懐かしい同級生Mちゃんでした。

お互いに近況報告をしあい、

Mちゃんが、10年前に自己破産して離婚したことを聞きました。

「長く生きているといろんなことあるね」

しみじみと、互いに話しました。

地元にいる懐かしい人たちの近況を聞かせてもらいました。

小学5年で家の自営業が倒産したため転校した私は、

その学校をみんなと一緒に卒業できなかったことは、

子ども心に区切りがついてなかったんだなあ・・・と

話題に出てくる人たちの顔をひとりひとり思い浮かべながら

なんとも切なく、同時に幼い私を育んだ懐かしい故郷に想いを馳せました。


実は、実家の滞在時間、ほぼ3時間でした。

これには、理由があります。

母親、父親のことは、気持ち的に処理できるのですが

問題は、私の処理外の妹と甥っ子ペア。


私ひとりで帰省するのはいいのですが、

今回は、子ども連れだったので

妹のひがみちゃん、嫉妬、自分の子どもとの比較、

品定めのチェックが入るのです。

そうしたら、妹の中に卑屈な感覚が起こり、

怒りがどんな形で、どこに飛んでくるのか分からない。


私たちが帰ったあと、両親とケンカするかもしれない。

甥っ子に当たり散らすかもしれない。

それとも、こちらにくるか?

(すべて経験済み)

その限界が、一緒に過ごすには、ぎりぎり3時間という

読みをしてのものでした。


帰りは、早い時間に実家をたち、途中観光地で遊んだり

温泉にはいったり、天の川をながめたり、帰りついたのは夜中過ぎていました。


その後の顛末・・・

次の日に、妹から一本の電話がきました。


甥っ子の携帯を、スマホを変えたという。

(私の子どもたちが、スマホを持っていたので、それを見ていた妹)

で。。。電波が入らなくて、youtubeが、見れないと苦情の電話。


まくしたてて、怒ってます・・・

(私は携帯電話の店員ではありません・・・ヾ(--;)ぉぃぉぃ)


実家は、田舎なので電波が入りにくいけれど、

家の場所によっては、入らないこともないと、うちの子どもたち。

それで入らなければ、ショップで相談してみたらどう?

「なんて、説明したらいいの!!??」

スマホを買ったのは、妹の決断なので、そこまで私を引きずり出されても・・・


一生懸命、舞台に私を引きだそうとする妹。


「何を怒っているの?」


と静かに聞いたら、「むにゃむにゃ」と静かになった妹。

「ショップで聞いてみる」と電話が終わった。


妹に何が起こったのか・・・



スマホを、実家に持ってきて、
見せびらかした、私の子どもたちが悪い。


私(妹)は、買うつもりが無かったのに
甥っ子に買わされた。


スマホを買ってしまったのは
姉の私に責任がある。
だから、私が責任をとるべきだ。


という流れを妹は無意識の中で行っていた気がします。
そこから、電波が入らないという怒りを、
私に転嫁しようとしたが、失敗したということになります。

恐らく、その後甥っ子は、「あなたが買うって言ったから!!」と
散々怒られていることだろう・・・

妹がして欲しかったことは、
私がショップに電話して、電波が入らないということを言って欲しい、
それくらいの責任はあって当然。
あなたが、そそのかしたんでしょ。

という3段活用で、記憶の操作が行われているのではないかと感じます。

言葉の語尾に「~~でしょ!?」と責めるような確認の言葉が
ビシバシと入っていることからも伺えます。

しかし、私の子どもたちがスマホを使っていたことには、
なんの罪もありません。
みせびらかそうとしていたわけでもありません。

恐らく、妹が私を羨ましいと感じスマホを買うように、
甥っ子を誘導したはずです。
甥っ子の状態を見れば、自己主張をするタイプではない。
そして、甥っ子は、「あなたが買うと言ったから」と怒られる。

子どもにとって、こんな理不尽な世界はありません・・・。
自分の意思を持たない、言わない、感情を抱かないことが、
この家で安全に暮らすコツです。
こうして、甥っ子は、世間と断絶が埋まらないまま
発達障害と薬づけで生きていくのだろう。。。

ちなみに、購入時にショップの人から
「電波が入りにくいかもしれませんよ」というのは、
事前に伝えられていることを最後に吐露した妹でした。

この巻き込み方は母と全く同じです。
夫婦がうまくいかないのも、対人関係が上手くいかないのも
お家の機能不全もすべて、母が抱え込み
抱え込んでいるのは、あなたのせいですという悲壮感・・・
「もし、~~であれば、私はもっと幸せになれた」
「もし、子どもがいなければ、別れられた」
それが、私の存在理由を薄くした母の思考の大元ではないかと感じます。

3時間滞在でも、厳しいのが現状です・・。
身内は、近すぎるゆえに手を出せないことは、なんとも切ないことなのです。

甥っ子に、ごめんな・・・と心で謝る私でした。

そんなことが、家庭内で起こっているなんて、誰ひとり知らないこと。

困っていない人は助けられない・・・
依存されても、期待に応えられない・・・


お母さんが変われば、家族全体が変わること

そして、子ども、孫、その孫・・・子子孫孫と連なる100年先の子どもたちに

幸せの連鎖が作れること。

自分が変わることの大切さを、この記事から読みとって頂けたら幸いです。

| AC | 16:35 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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【AC】相手の気持ちが読めない不安

子どもは、思っているかもしれません。


「どうしたら、両親が気に入る自分になれるのかな」


と・・・



そうやって幼少時代を過ごした経験のある人たちは、

他者の気持ちを読み取り、

他者の気持ちにフィットする言葉を選んできました。


しかし・・・

もし、読みとれない人がいたら・・・

どうしても読みとれない!

なぜに読みとれない??


次に、確認作業をやり始めます。

「怒ってるの?」「私のこと見てる?」

確認作業がとれると、ほっとします。

依存症的操作的確認行動です。


そこで、確認が取れないと

何か問題を起こし始めるかもしれません。

怒ったり、いじけたり、泣いたり、落ち込んだり・・・


多くの人は、なだめたり、慰めたり、話しを聞いてくれたり

ここでなんらかのリアクションを起こします。


しかし、何も起こさない人もいます。



もっともっと不安になりますね。


今度は、証拠集めをしながら、心理的ゆさぶりをかけてきます。

さも相手が悪かったかのようにストーリーを組み立てるのかもしれません。

まるで、私を嫌いになれと言わんばかりに。

ある時は、私が悪かったとわけもなく謝ってくることがあるかもしれません。


さらに、へとへとに疲れて離れて行く人、

それでも残る人に振り分けられるのかもしれません。


辛抱強く?残った人たちは、さらなる心理的揺さぶりに対して、

「見捨てないよ」と言わされます。

もしくは、「別れよう」と言わされるかもしれません。

いずれにしても、シナリオはどちらも幸せにならない方向へと導かれます。


すべて共通しているのは、本人は何一つ動いていないという事です。

まわりの人だけが、動かされていきます。


いずれにせよ、相手の気持ちが読めなくて

操作をしてきた人たちにとっては、

「心が読めない」ということは、とても面喰う非常事態なのかもしれません。

心を読めない事への不安の種類に


・相手に調子を合せることができない

・嫌われるツボが分からない

・好かれるポイントが分からない

・言葉の方向性が何を指し示しているのかの、ニュアンスが分からない

・求められている事がわからない

・褒められることも、嫌われることもできない


次第に蛇の生殺しの状態に陥り、狂乱した心の状態になっていっても

不思議ではありません。。。





人の心を読もうとし過ぎて混乱していき、

やがて、自分の意思を失っていくのかもしれませんね。

この行為は、幼少の母子関係から引き継いでいる

心の癖ではないかと考えます。

ある種、恋愛依存症の仕組みに似ているのかもしれません。


参考記事:恋愛依存症と現代の母子関係【証拠を探す貴方に・・・】(byきんたろうさん)
↑↑記事中リンクも、続けて読まれたら参考になると思います。

| 不登校とAC | 22:02 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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