アダルトチルドレンからの回復~失ったものを取り戻す~

・°☆”Core Rebirth あなここ”オフィシャルブログ☆.。アダルトチルドレン(毒親・機能不全家庭・コミュニケーション不全・喪失感・依存症)から失った自分を取り戻すブログ

<< 2012-03- | ARCHIVE-SELECT | 2012-05- >>

| PAGE-SELECT |

>> EDIT

ピグの新ゲーム

ピグのベータ版の開発中のゲームのお試し参加にダメもとで応募していたら

当選してしまって、数日前からぽちぽちとやってます。

もちろん、アンケート付きです。


お試し参加の条件に、内容を口外したらダメという規約があって^^;

アメーバに書いたら即削除対象w( ̄Д ̄;)

画像だけでもアップしたいところだけどやめときます。

徹底してるのよね。


ピグライフより、お手伝いする機能が少なくて

コインが貯まりにくいなあ。

ゲームのバランスが、いまいち悪いような感じがします。

釣りでも出来たらいい雰囲気なゲームです。

5月中ごろに、リリースされる予定なのだそうです。

さらに、7月、8月と新ゲームリリースが控えているらしい。

どちらかというと、8月公開分が面白そうな気がする。


と、どこにも書けないのでFCに、書いてみました。


現在ピグライフは、飽きてきたところで放置状態。

ピグ自体も、すでに全然やってないという。


時流から大きくはずれて、

クリの記念碑クエストをの~んびりやってます。

(すでにサブピグの方は放置)

心残りのリボンをゲットした後、こちらも完全放置になるでしょう。

なに、やってんだか(T▽T)


20歳以降、ゲーム中心の生活に、はまっていた頃

「死ぬまでドラクエするかも」と思っていたのだけれど

昨今は、さっぱりゲームに気持ちが行かなくなりました。


ペット、ゲーム、スピリチュアル、宗教、と転々としたけれど

行きつくところに、行きついた感・・・

これらの1つでも欠けたら、今の私は無かっただろうと思います。


きっと、不登校・ヒッキーさんたちも、

満足を探して、オタク化しているだけなんだろうと感じます。

失った何かを満たしてくれるものを探しているのでしょうね。

振り返ってみれば、

AC回復の途中では、失ったものを取り戻したいという強い衝動に悩まされてきた

そんな人生だったような気がします。







| 日々のこと | 13:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

【不登校】子育てに終わりはあるのか?

息子の中学不登校時代を振り返って、思う事があります。


不登校当初は、子どもが学校へ行けるようになるのか

このまま、ニートヒッキーになるのか

漠然とした将来の不安について焦点が当たっていましたが、

息子が20歳過ぎた今

結局、子どもがこれから どういう生き方をして

人とどういう関係性を形成していくのか


不登校時代にやり直しをしたことの集大成が

20歳以降なのだろうと感じます。


学力がついたらいい人生の選択肢が増えるかもしれない

いい大学を卒業したら就職に困らないかもしれない

手に技術を付けたら食べていけるかもしれない


そういう考え方も一理あるのですが

人間関係でつまづいた場合、

これは当てはまらない気がしてなりません。

いくら、学歴・資格・技術を持っても

職場でそれらを活かし、やりぬき、人間関係を構築し

日常茶飯事に社会の中でおこる理不尽な事件に面しても

対峙していく心の強さがないことには

仕事についても挫折してすぐやめてしまう

そのままヒッキーというパターンも多いと感じます。


繊細で、傷つきやすいということを売りにしても

恋愛をしたり、親友を作ったり、結婚したり

ということは至難の業かもしれません。


昔とはかなり様相が変わってきましたが

それでも、男子が経済の中心にいることは

社会的要求として否めません。


男の子は、家庭を持つと

奥さん、子どもを守っていくという力が必要です。


女の子は、やはり子育てにおいて

男子より圧倒的に育児にかかわる時間が多いのも

身体機能的には、しょうがないことも多い。



だいぶ前にTVで

人工保育で育てられた動物園の象の子育てのお話をがありました。

子育てが出来なかった子象のお母さんも、人工保育で育てられていました。


反対に野生の動物を保護し、野生の仲間に返すことを目的とした場合

少しずつ野生に慣れさせ、

本能を取り戻させ、自分でえさを狩り

自立していくドキュメンタリーなどもよく見られます。

ふる~いところで、小学校6年のころにはまっていた

「野生のエルザ」は、大好きでした。←ぐぐってください^^;


当時は、主人公のライオンが好きだと思い込んでいたのですが

今考えると、自立させようとする

人間と子ライオンの愛情・信頼に強く惹かれていたことがわかります。



子育ての集大成は、

その子が、どんな恋をして、どんな子育てをし

家庭を作っていくか

そして、その先も・・・
 
こうしてひとつの世代の歪みが

子どもたち、孫、ひ孫・・・ そのずっと先にも

影響を及ぼすことを考えると

世代間のひずみの中で「このままでは、苦しいんだ、間違ってる」と

思った人が、世代の歪みを少しずつ変えていくしかないのでしょうね。


不登校と不登校に関わるお母さん方は

世代の歪みの連鎖を止める、その中心にいると考えてみても

いいのではないでしょうか。

恐らく、現在、もしACの自覚があるお母さんなら

自分の子ども、孫・・・、このくらいは守備範囲と思ってもいいかと思うのです。

変わろうと思った時が、変われる時です。

変わりたいと思った時が、もう変わり始めているのですから。




| 未分類 | 11:57 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

【AC・不登校】安全な場所 ~母親の聖域を壊すことが回復につながる~

安全な場所・・・セッションを受けたことのある方には

なじみの言葉だと思います。

が、何度聞いてもピンとこない、自分と重ねられないというのも

正直なところなのかもしれません。


おさらいとして、記事をアップしておこうと思います。


人は、それぞれに自分の心を守るために「安全な場所」を持っています。

たとえば、子どもであれば、数人の仲良しグループであったり

気の合う友人と共に過ごす時間だったり、家庭であったりします。

時にはケンカをしたり、言い争ったりもしますが、

本来は、そのような場所は、安心して自分をさらけ出しても受け入れてもらえる場所、

そのままの自分でいることを許可される場所です。

そこを1つ目の安全な場所と表現します。


しかし、心に重荷を抱える子どもであるならば、

1つ目の安全な場所が安全ではないように感じるということが多く見られます。


このように、大多数の子たちが安全な場所だと思える場所を安全ではないと感じる仕組みは

もっと幼い頃の家庭をベースとする心の仕組みから波及している場合が多いのではないかと感じます。


もし、親が過干渉すぎるとしたら・・・

過干渉の状態で幼少期を過ごし、自分の心を小さく制限されていき

自分の意思を自分で決められない子どもにとって

制限されることが少なく自由な意思を持つ子どもの集団は、とても脅威になります。


反対に、もし親が無関心ならば

親の関心を得ようとすることで、必死になりますが、それでも関心を得られないことで

自分独特の納得しかたを作らねばならなくなります。


過干渉でも、無関心でも子どもにとっては、親を責めることも出来ず

親を憎むことも出来ず、それでも親を守るために、

「自分が悪かったから」

「自分がダメな子だから」

と自分を傷つけることで、納得できない環境を乗り切ろうとします。

きっと、生まれてから何万回も、自分を傷つけて

親を守ってきたことだろうと思います。

子どもは、「あんな親、いない方がいい」と口にしながらも

親に愛する力がないという究極の悲劇を避け続けてきたと言ってもいいかと思います。

無力な子どもにとって、親という存在は自分に愛情を向けてくれるに違いない

唯一信じていたい人なのです。

そして、どんなにがっかりしてもその愛情を信じ続けようとするのです。


愛する人を守るために、
自分の持つ愛情のともし火を消さない為に。。。。

自分を傷つける事で心を逃して来た場所が
不遇の環境の連続で出来上がってしまっていたのです。

この小さな小さな場所は、不遇の連続により
沢山の手法を使わなければ、その場所に逃げ込む事ができなくなったのだろうと思います。


≪壊れた心を取り戻す≫より参照(byきんたろうさん)


上の文章の意味を、私の文章と照らし合わせて、よくよく感じて欲しいと思います。

さらに続きます。

その為に、言い訳や違和感を誤魔化し、その場所に無理やり逃げ込もうとする行為が
心の法律や、記憶の操作、納得と相殺などより複雑な手法を作り出す事に
なったのだろうと推測しています



こうして大人になった私たちは、

この複雑な仕組みをさらに複雑に使いながら、成長させながら

自分を守る手段として心の癖を生みだしていきます。


この思考の回路を広げていきますと

たとえば「他虐的怒り」で説明していくとすれば

誰かと話していて、何気ない言葉や行動を怒るために記憶にインプットし

そこに怒りを感じるシステムを作るのではないかと感じます。

ターゲットになった相手は、かつて自分を威圧的に抑え込んだ母親の記憶の投影だとすれば

母親を守るために、代償行為で他者に怒りをぶつけるという行為なのかもしれません。

しかし本人にはこの自覚がありません。

なぜなら母親を守るために 記憶の操作、消去が生じているために

怒りの爆発は母親に直接は向かず、無意識の状態でなされます。


他虐的があれば、反対に自虐的な場合もあります。


「私はどうせ、ダメな人だから」と

寂しく孤独なかわいそうな自分をせっせと作るということもあります。

泣くことで、相手から責められない防御壁を作るということもあります。

嘆いているから泣くのではないのですね。

本当は「かわいそうな私」を一番見せたいのは、お母さんなのです。

しかし前述したように母親を守るための心の仕組みを作っているので

「かわいそうな私」が、母親に向けられることはありません。

そして、「かわいそうな私」は、誰も踏み込めない特殊な 聖域と化します。

よく言われる虚無的な空虚な感覚も、ある特別な人だけが

強く感じる感覚であるかのように感じがちですが、

そこにあるのは「どうせあなたには私の気持ちは分からない」という

拒絶感が占められている気がします。

絶望的な思考回路でありながら、同時に自分を特別化する万能感を与え

生きる意味を与えるという奇妙なねじれ現象を起こさせます。

(人間にそれほどの違いはないと思うのですよ)

愛情を諦めきれない気持ちの残骸なのかもしれません。

このように、「2つ目の安全な場所」は、色々なパターンで

本人の実像を見せることを拒む手法として使われていきます。


入りきれない大きな出来事(虐待・過干渉)を変換し圧縮する事によって詰め込んでゆく・・・
やがて、入りきらなくなった時、心に障害が現れ・・・・・
心を吐き出す場所を探す事になったのです。



自虐的であろうと、他虐的であろうと、

自分が逃げ込む安全な場所であることには変わりがないのです。

それは、恐ろしい事に、違う感覚を持った他者への拒絶を意味しています。

隔離された安全な場所。特殊な世界です。

しかし安全な場所は個々の心の中にとても巧妙に作られているので

一般的にはとても分かりづらいものだろうと思います。

一見、正当性をもっているように見えるので、普通の人たちは戸惑ってしまいます。



子どもたちは、このような家庭環境において次第に他者とのズレを感じていきます。

そして、無意識のまま世代間の連鎖がくりかえされることになります。

子育てをするうえで、親が思うのは

「どこにいても自分の意思を出せて、のびのびと自由であって欲しい」

ということではないでしょうか。

そう願いながらも、知らず知らずのうちに自由を奪い取り、意思を奪う家庭であるならば

家族の誰もが苦しいのではないかと感じます。



手を変え。品を変え。場所を変え。人を変え。
どこまで行っても、同じ事を繰り返している事にさえ気づかない。。
これが自ら作り出した安全な場所の最も恐ろしいところだと考えています。

どんなに心の勉強をして、知識を高め、認識を変えても
自らが作った、安全な場所に逃げ込む瞬間を捉える事が出来なければ・・
他者が提供する安全な場所を、どこがで拒否し認める事が出来ず。。
自分と本当に向き合う事が出来ないのではないでしょうか?



自分が作り、自分の愛情を守り続けた「2つ目の安全な場所」に気づくことは、

ある意味、非常に残酷なことで悲しいことでもあります。

しかし、この2つ目の安全な場所が自覚されない限り、

1つ目の安全な場所を拒絶し続けなければならないという現実もあります。


子どもたちに自由な人生を歩んで欲しいと願うならば、

2つ目に逃げ込むことを伝えるのではなく

1つ目の安全な場所を伝えていきたいものだと思うのです。


            【まとめ】
●1つ目の安全な場所・・・他者と気楽に交流できる場所
            
      家庭、近所、学校、地域、社会などが含まれます。

      人間関係の中で生まれる自然なコミュニティ

      制限が少ない場所

●2つ目の安全な場所・・・自分の心を守るために作りだした自分独自の安全な場所

      制限が多く、その場所でしか通用しない心の法律のシェアが大きい場所
      制限が多いということは、他者もその制限の中で生きなければ許されない世界

自分が作った安全な場所を壊せるのは、自分だけです。


*青文字・・・壊れた心を取り戻すより参照

| 不登校とAC | 16:46 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

誕生石ブログパーツ

右サイドのプラグインに誕生石のブログパーツを入れてみました。

怪しい人たちのために、怪しい話のネタになれば嬉しいです( ̄m ̄〃)


ついでに、懐かしの音楽も入れてみました。

ブログやHPを訪問していて、気にいったMIDIが流れていれば

ページをずっと開いたままにして、聞きいってしまいます。

ページのサクサク度を考えると、あまり得策とは言えないのですが

潤いも大事かなと再度使ってみました。

| 日々のこと | 01:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

【AC】どちらを選ぶか自分次第

ツイッタ―でなかなか面白い文章を見つけたので

アップしてみます。


1人でいると孤独感
2人でいると劣等感
3人でいると疎外感
4人でいると圧迫感



この思考には誰の存在も感じません。

翻訳すれば

「私のことは誰も理解してくれないの」

「こんな風に育てられた私は恥ずかしい人間なの」

「だから、こんな気持ちにさせる、あなたたちがいけないの」


という感じになるでしょうか。

主観的な嘆きや訴え思考、そして他者を拒絶すれば、

上のようなもっともらしい「被害者」になれますね。

なんだか、寂しい人生を自分でせっせと制作しているような感じがします。

誰かに、自分が「被害者」であることを

訴えたい気持ちでいっぱいなのでしょうか。


1人でいても、2人でいても、3人でいても、4人でいても

他者の存在を感じることができるなら

そこに、感謝や信頼、絆が生まれてくるのではないでしょうか。

拒絶して生きるか、共に生きるかで

人生の豊かさが違ってくると思うのです。


変わるチャンスを掴むのは、自分次第。

今、目の前にあるものを大切に出来ずに

何も変わらない。

寂しい後悔ばかりで恨みつらみな老後を迎えたくないなら、

今、豊かな人生への一歩をお薦めするよ^^

光の方向へ*:..。o○☆゚

決意できるのは、あなただけです。

| 不登校とAC | 13:53 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

月と幻と

ある時、玉が飛び散った

飛び散ったかけらを探して旅が始まった


ある時は、学者のところへ訪ねて行った

夢中になって学問を学んだ

けれど、いつまでたったも、玉の欠片は見つからなかった


ある時は 魔法使いの弟子になった

長い年月をかけて、一生懸命技を究めたけれど

どんなに魔法が上手くなっても、

玉の欠片を取り戻す魔法は見つからなかった


ある時は、屋敷の掃除夫になった

どんなに掃除のエキスパートになっても

玉は探せなかった


ある時は、木こりになった

何本木を切っても

玉は出てこなかった


ふと 漆黒の夜空を見上げた先に

丸く光輝く 青い月が目に入った

探してした玉とそっくりに思えた


それからは 手に入らない 失ったものを思いながら 月を眺めた


☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆


あれから何十年、探し続けたのだろうか


幼い頃の同じシチュエーションを

違うメンバーで演じ 果敢にいどみ

何度も何度も再現しては、越えられないたびに

月をながめた

眺め過ぎて 自分でも 失ったものが 何だったのかさえ

忘れてしまった


忘れてしまっても・・・

忘れてしまった何かを一緒に見つけてくれる人を捜し求めた


出会った人は みんな 欠片なんて 見えないと言った

欠片なんて 無いんだと言った

普通に生きろよと言った

わからないものを探すのはおやめと言った


そんなはずは、ない

私は確かに、何かを失ったんだ


こっけいでも 笑われても あきれられても

どうしても諦めきれなかったんだ



あれから 何百年も過ぎた気がするけれど

やっと 欠片を見つけたよ

こんな所に・・・

陳腐なラブストーリー並みの突然のストーリー

くたびれ続けた理由を 両手にすくって 深いため息

途方にくれる瞬間


私たちは 再び出会った

呼び続けていたのは 君だったのかと 鏡をのぞきこむ


月は ただの月になり そして 西の空に沈む
 

今まで 歩いてきた無数の足跡が 

朝陽に照らされ

一本の線でつながった



わたしは ここに いる



一緒に見つけてくれて ありがとう

| AC | 18:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

【AC・不登校】共依存(承認欲求の視点から考える)

かなり一般的になってきた言葉『共依存』ですが、

一昔前は、なんとも掴みどころのない言葉として存在していたような気がします。

最近では、言葉や知識として本や講演会、勉強会など数多くありますが、

分かったような分からないような、感じもするのかもしれません。

分かっても、止められない、止まらないが、共依存なのかもしれません。

いやいや、止まらないのでなくて、

「止めたくない」状態なのかもしれません。


共依存は、1人でやれるものでないので、

必ず、複数の人間関係の中で行われます。

ある時は、献身的な聖女を装い

ある時は、牙をむき・・・

これには、「私を必要としてくれる人」がいて、

「私を舞台で輝かせてくれる人たち」が必要不可欠であり、

そこに「良き評価」が必要になります。そこで一時の満足感を得られます。

が、もし、良き評価が得られなかった場合は、

強烈に「相手を力づくでコントロール」したい欲求が湧きでます。

「むきーっ」となった状態ですね。


その欲求は、幼い頃に得られることがなかった

母親への諦めきれない承認を欲し続ける無意識が

操作をかけてきます。


必要とされたい、正義の人でありたい

一生懸命、一途であること、守ること

そのためには、自分を犠牲にすることもいとわない

たった1つの大切なものを守るために編み出された心の癖なのだろうと感じます。

このことを思うと切なくなります。



「すごいでしょ、私^^」

キラキラした目で見上げた先に、笑って手を広げている母親の幻想。

たったそれだけの、子どもの夢。


たったそれだけの事を取り戻そうとする行為が

結婚し、子育てが始まり

「ほら、見て見て、お母さん」が、

「分かれよ!私の辛さをわかってよ」を子どもたちに

訴え続ける衝動(フラッシュバック)に変化していき

訴えられた子どもたちはわけも分からず、家族の共依存に巻き込まれていく・・・

次第に覇気のない元気を無くしていく子どもたちをしり目に

コントロールをめぐる権力のループが構築され、

さらに共依存を後押ししてしまう人「あなたの凄さが、分かるわよ」(同調・称賛者)と

共依存を推し進めたい人が、互いに役割を場面場面で変えながら、

息苦しいけれど、安全な場所を作り続けていくのでしょうね。


やがて誰もいち抜けを許されない、閉鎖空間から抜けられなくなってしまい

抜け出るという概念さえ分からなくなっていきます。

もちろん、抜け出たいけれど、抜け出れない葛藤も起こるのですが

ここで登場するのが、独自の「配列」作りをして自分を狭め、

限定することで安心するというシステムが作られていくのではないかと感じます。

(この話はまた、いつか)いつだろう(-ω-;)ウーン


このように、ここしか生きる場所はないと思わされていく思考は

まるで新興宗教のような世界観が家庭、社会で繰り広げられていく

そんな気がします。


子どもたちが望むことは、そんな王様や学者や先生がお家に欲しいわけでは無いと思うのです。

おバカでもいい、家族みんなで笑いあいたい

家庭が風通しの良い、穏やかな場所であって欲しい、それだけだと思うのです。



関連記事:「自立させない場所」・宗教・セミナー・サークル「歩いていこう」より
記事内にさらに、リンク記事が付いていますので、こちらも合わせて読んでくださいね。

| AC | 15:25 | comments:1 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT |