アダルトチルドレンからの回復~失ったものを取り戻す~

・°☆”Core Rebirth あなここ”オフィシャルブログ☆.。アダルトチルドレン(毒親・機能不全家庭・コミュニケーション不全・喪失感・依存症)から失った自分を取り戻すブログ

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図々しい人

母は、人付き合いが、
苦手な人だった

親戚、本家の集まりでは
いつも下働きを黙々とする人だった

そんな母を、みんながいじめてると幼い頃思っていた

父は感情を抑圧して社交的でない母に
いつもいらついていた

母を守らなければならなかった私

気さくにニコニコと近寄ってくるおばさんがいた


私は心をかたくなに、

侵入してくる人と

拒絶をしていた

デリカシーのない人


そう、思っていた

可愛がってもらったこともある

お泊りして、従兄弟たちと映画に連れていってもらったこともある
(母とは、一度もない)

海に泳ぎに連れていってもらったこともある
(母とはない)

従兄弟と同じようにプラモデル買ってもらったこともある
(母とはない)

なのに、心を開こうとしなかった

昨年、母のガンの手術のとき、
おばさんもきてくれていた

「○○は、昔と全然かわらないね~」

そう言われた

母が、このおばさんのことを

嫌いなこと知ってるから

必要以上に、緩まないことを

自然にやっていたことに気づく。

今回、母がガンの治療検査で入院したとき

前と同じように
母は、個室に入ることを
かたくなに望んだ

「大部屋の方が、
人がいて楽しいのに」

私は再三、そう言ったけど

人と交わることを極度に恐る母は、
個室の寂しさより、
人との違和感を感じる大部屋の方の寂しさを
避けたかったのだろう

意固地に人を拒絶する母が
悲しかった

人と交わる楽しさを知ろうとしない母を再確認した


話はおばのことに戻るが
おばもおじ(もう亡くなってしまった)も、私をいつも愛情深くみてくれてた。

それを私は、拒絶しなければ
母を守れなかった

ずうずうしく、おしゃべりで、ずけずけしたおば

母の異様な我慢強さと遠慮深さを基準(普通)としたら

小さい頃の私には
おばは、当然そう見えた。

ねえ、おばちゃん、
私ね、おばさんのこと
好きだったよ

大らかで、おしゃべりで
よく笑って、
従兄弟たちと差別しなくて

お母さんとは違う人種だと
私は知ってたけど
それを言ったら、
お母さんが悲しむから
言えなかったんだよ

今なら言えるよ

愛してくれてありがとう
拒絶してごめんね

| 過去回想 | 12:53 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレンの子育て】比較・劣等感

私が、小学校一年になろうとする幼稚園年長の終わりの頃に、

知能検査というものが当時ありました。

今は、ずいぶん昔に廃止になったと聞いたことがあります。


で・・・

その結果、「知能が高い」ということが判明。

将来が楽しみだと言われたようでした。

小学校に入った頃、親たちはそのことを自慢げに話し、

私にもご近所さんにも・・・。

先生たちからも会うたびに言われて親はご満悦。


どんな検査だったのか・・・、受けたことだけはなんとなく覚えています。

茶色の冊子になったものを小学校の木の机で、やった記憶があります。


さて、「知能が高い」「将来が楽しみ」と言われたということは

そこに、当然まわりの子たちと親が比較していたという事実。

子どもとしては 親のニュアンスから

期待と優越感を学んでいきます。

同時に、何を考えているのか分からない子とも言われ

それは、ダメな自分を示唆されます。

自慢と劣等・・・同時に示されることは

普通の比較のない世界から遠くはじき飛ばされた思考を

極端に植え付けられたのではないかと感じます。

まわりの期待に添う生き方・・・

小さな村でしたので、先生やまわりの子、親たちの期待

きつかったな・・・と当時を思います。

小学一年の時に不登校になったのは、

あまりに期待が重かったことを示しているのかもしれません。




そして、小学5年で引っ越しをしたとき

期待から外れることに、かなり、ほっとした自分もいたりしました。

しかし、以前の学校より大きな学校で、大人数の中に埋もれた自分に

激しく劣等感を抱いてしまっていた私がいました。


そこから、スピリチュアルな特別な空想の世界に飛んだのではないかと感じます。


比較、劣等感を強烈に植え付けるのは

家庭ではないかと感じるのです。

子どもの評価を、比較でしないで欲しいと思うのです。

小さな私は、今頑張ったことを認めてもらえれば、それでよかったんです。

優越感を抱かせるということは、劣等感も強烈に抱かせるということを

知っておいて欲しいと思うのです。


後に、長い長い間劣等感と優越感のはざまで苦しんだこと
そこから抜けるまで、人間関係で心が交わらない苦しさを
経験したか・・・記しておきます。

| 過去回想 | 20:01 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【アダルトチルドレンの子育て】我慢は美徳

小学生の頃でした。

当時、なんとかという通信教育の走りでしたが

勉強の進度に合わせて、毎月冊子が送られてくるという補助教材が

友達の間ではやったことがあります。

今でいう、○ペン先生みたいなものだったかと思います。


特に一番親しかった友人がその教材をやっていることが

うらやましてく、親に「これをしたい」と言った記憶があります。


多分、自分から親に「欲しい」と言ったのは始めてではなかったかと。

欲しかった~~という記憶があります。

でも・・・

母親は渋い顔をして、あえなく却下されました。

(理由は覚えてないのですが・・・お金のことを言われた記憶だけはあります)


その時に限って何度かしつこくせがんだ記憶があるので

話も聞いてくれずに、却下は、すご~く悲しかった。

お金を理由に言われたら、歯がたたない・・・


多分、当時の私は、友達と同じことをすることによって、

共有して繋がりたかったという気持ちが大きかったと思います。

その気持ちを分かってもらえなかったことにがっかりしていたと思います。


教材云々ではなかったのですね。


しばらく悲しみにくれて意気消沈してました(^^;

悲しみを誰にも言えず、1人ふてくされて、我慢していました。

そして、諦める方向で自分をなだめていました。


が・・

ある日のこと、何の前触れもなく「やってもいい」という許可が母から出せれました。


うれしかったのは嬉しかったのですが・・・

一度は、1人悲しみにくれて、我慢して、諦めようと頑張ってる最中。


たぶん、私のそんな姿を見て、母親は考え直したのではないかと思うのですが・・・

せっかく頑張って、自分の気持ちをなだめたのに、複雑な気持ちでした。

結局、やり始めたものの半年で全然しなくてやめてしまいました。


一旦、我慢させて、諦めさせられ、悲しい気持ちを自分でどうにか治めようと

葛藤している状態を、ぶち壊しにされ

「いいわよ」と言われる感覚・・・

なんだか、我慢して、落ち込んだ姿を見せたら、何かを得られると

教えているようなものではないかと今、思うところです。


これは、記憶に残っている数少ない具体的なエピソードではありますが

形を変え、品を変え、こういうことが繰り返されたのではないかと感じます。

そして、私も同じことを子育てにおいてやっている・・・^^;

ずっと、心に引っかかっていたことでした。


我慢は、美徳ではない。

我慢をアピールに使ったら相手を無意識に操作していることになる。

そのことに気づくのに、数十年・・・かかってしまいました。


もし、一度、断ったのなら

葛藤する状態をよしよしと、見守っていて欲しかったと

そんなことを思います。

そうして、子どもは、葛藤する自力をつけていけるのではないかと感じます。


| 過去回想 | 17:52 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【過去回想】オセロの思い出

家族や、友達で楽しんだゲーム

学校では、短い休み時間には、ノートにマス目を書いて
五目並べをやっていました。

放課後は、トランプをやっていた記憶があります。
「スピード」なんか、競ってやっていましたね。
豚のシッポなども。

トランプではないけど、「コックリさん」も、やりましたねえ。
鳥居を書いて、五円玉転がして遊んだものです。
でも、ヒステリー症状を起こして
倒れる子が出て、学校で禁止令が出ました(汗;

そして、お正月にやるゲームといえば
私にとっては、「オセロ」ですね。

当時、叔父(母の弟(かなり年が離れている))が、岡山から
帰省してくるのが、楽しみで楽しみで^^

あるお正月に
その叔父が、オセロ盤を持って家に泊まりに来てくれました。
私が、小学校高学年だったでしょうか。
大好きな叔父なので、もう、嬉しくてね。
犬のようにくっついて、離れませんでした。
その叔父が教えてくれたのが、オセロゲームでした。

何度やっても負ける。(当たり前でしたが)
悔しくて、悔しくて、「もう一回!」としつこく、せがんだ記憶があります。

オセロの基本的な攻め方を教えてもらいましたが、
なかなか、角が取れなくってですね。
叔父が帰省してくる、お正月やお盆の度に、
オセロ盤を出して、叔父と勝負してました。
まだ、小さい妹は、オセロには興味を示さず、
叔父を、独占できた幸せな時間でした。
私のオセロ好きは、ここから来ています。

お正月やお盆は、親戚ごとが多く、苦手な記憶の方が多いのですが、
同時に楽しい記憶も、埋もれているんですね。

大人になり、そんな記憶は、すっかり忘れてしまっていましたが
結婚して、子育てが始まり、
子どもたちが、小学校の頃になると、
自然に家族でオセロをやるようになりました。

特に、息子と私は、数多くやってきた気がします。

息子は、特にオセロが好きってわけではないのですが、
オセロをしている私、楽しそう(緩和状態)である事を
わかっていたのでしょうね。
(表情、声のトーン、しぐさ)
↑楽しそうにしなきゃというものではなく、自然とそうなります。

夕飯が終わると、「お母さん、やろう」と誘ってくれていました。
その逆もありですが、
今でも、たまに思い出して、オセロ盤を引き出しては
勝負しますが、負けることが多くなっている昨今。
息子が不登校の時も、高い頻度でやっていました。


叔父が伝えてくれたもの・・・
叔父は、うちの家庭が、戦場のように過酷だという事を
知っていたはずですが、
その中で、自分の愛情を私に伝えてくれようとしていたのでしょう。

中学の時、始めてローラースケートに連れて行ってくれたのも、叔父。
フルートが欲しいと、吹けもしないのに、わがままを言って
まさかのまさかで、本当に誕生日に、送ってくれたのも。
ずぶの素人が、いきなり吹けやしないと分かっていながら、
送ってくれました。
はじめて、中島みゆきを教えてくれたのもこの叔父です。

閉鎖的な家庭の中で、ただ一筋の光のように
叔父が帰省することを楽しみにしていた幼少時代でした。


2月、3月は、苦手。
叔父が高校を卒業して、岡山に行ってしまった3月。
何も知らされず、見送りに行った駅のホーム。
なぜ、叔父が行ってしまうのか、それさえもよく分からなかった小学校低学年。
祖母も母もホームで泣いていた。

あの時、思い切り泣けなかったのは私。
この季節は、切ない季節。
大切な人が去っていく季節。

オセロから、そんなことを思い出した。
暖かくも、切ない思い出。
大切な記憶を ここに、記しておこう。


ああ、だけれど、肝心なことを私は知らなかった。
叔父の誕生日がいつなのか。(´;ω;`)ウゥゥ

| 過去回想 | 01:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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